| 演奏者 |
| 第116回定期演奏会 |
| 8日 | (日) | ゆうぽうと簡易保険ホール |
| 15日 | (日) | 東京厚生年金会館大ホール |
| 演奏曲目 | 試聴可 | ![]() ▼Click&Listen | 音源を聴くには のインストールが必要です。 |
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| PROGRAM |

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第2ステージ

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第3ステージ

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第4ステージ

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第5ステージ

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アンコール&ステージストーム

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| 先生の言葉 |
今年、夏合宿以後のワグネルは、それこそ“ワグネル始まって以来”と言ってよいほどのシンドイ年となった。合宿は例年も相当キビシイものだが(私も、午前、午後、夜、即ち10時半から12時、1時から5時過ぎ、7時から9時半遅くまでぶっ通し棒を振り続けた)、今年はそれに輪をかけた。
何せ、世界中の演奏団体がやりたくともなかなかやれないでいるヴァーグナー若き日の超大作、「使徒の愛餐」初演をワグネルで引受けたのである。このドレスデン世界初演は男声合唱、なんと1500人もの大合唱だったという。東京都交響楽団の定期演奏会として、若杉弘氏は、この未知の大作とブルックナーの“ヴァーグナー”と呼ばれる三番シンフォニーを組合わせた。ヴァーグナーの革命的思想に共鳴し、その名を戴いたワグネルである。孫に当たるヴォルフガング・ヴァーグナーさんも、「日本には私の生まれる前から、おじいさんの名を持った男声合唱団がある」と、ドイツで自慢されていたと若杉氏から聞いたが、どんな難曲、大曲であれ、日本の男声合唱団のトップにあると自負するワグネルが、これを受けて立つのは当然だろう。
夏の合宿から、藤森数彦君のていねいな指揮ぶりを見ていて、これなら大丈夫、OBもこの曲の約半分はOB定期のステージにのせたし、と少し安心はしたが、本番を聴く迄、やはり心配だった。当日のステージ・リハーサルで本番への見通しは立った。本番に強い(?)ワグネル現役・OBの120人、ガンバレよ、と心の中で祈った。都響のオケがコーラスに入るまでの26分位はア・カペラの丸裸である。録音で先どりした天上の声が、うまいぐあいにいいバランスで。まるで舞台の裏の上の方で歌っているようにきこえる。本当に歌っていると皆思ったらしい。オケが入り、クライマックスに達すると、すばらしい声がサントリーホールいっぱいにひろがった。やはりOBの声は大人の分厚さを持っている。それはこの「タンホイザー」の合同で聴いていただこう。その十月にはもう一つ「ワグネル創立九十周年」のマーラー「復活」もあったので、本当にメンバーの苦労は(殊に一年生)大変だったろう。しかしこの苦労、忍耐、集中、そして燃焼の、他のクラブでは味わえぬ一体感は、ワグネリアンの一人一人の人生をしっかり支えてくれる筈だ。今年はドイツ語漬けになったが(ただし歌うだけらしいけど)、そのぶんトスティの甘美な旋律、「水のいのち」の、日本語でなければできない内容の深さを、六連、四連以上に追求しよう。
発声のフォームというものは、その国の言葉に深くかかわっている。生まれおちたその瞬間から耳にし続けて来た言葉は、〈声〉を媒体として相手に伝達される。関西の人が関西のイントネーションから一生抜け切れないように、耳の中にプリントされてしまった音色、発声は、我々の日常生活と結び合いながら、日本人としての〈声〉を作り出して来た。母音の多い日本語とやはり母音の多いイタリア語は、一見共通項があるように思われがちだが、その母音の作り方は全く違う。歌の国、ベル・カントの国の作品をわたしは故意に避けて来た。「合唱を通じて世界のあらゆる国の音楽を!」という私の考えは、ワグネル当初からの私の悲願だが、ワグネルがイタリアものを取り上げた回数は全く少なかったのである。声をムダなく効率よく完全にひびかすには、やはりベル・カントが音声医学上、最も人体にとって自然なフォームである。言葉の落差を超えて、日本語とベル・カントの接点をつきつめてみたい。[第40回東京六大学合唱連盟記念定期演奏会プログラムより転載]
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疑いもなく、いま地球は破滅の道を急ぎつつある。地球上にすむわれわれの手で。それが愚かなことだということが解っていても、人間は地球から緑を剥ぎとり、森林を死なせ、土地を汚染することに情熱を燃やしているとしか見えない。すべて経済優先、効率能率第一の現社会体制は、人間から感性を抹殺しようとするばかりである。
地球が地球を地球たらしめているもの。それは「水」。人間が人間を人間たらしめているもの。それも「水」。すべての「いのち」である水さえ、汚染され、自然そのものの「水」のいのちは地球から消えようとしている二十世紀末期。ドイツの誇るシュヴァルツヴァルト(黒の森)は酸性雨でその姿を失いつつあり、チェルノブイリの空からは放射性を含む雨が、またペルシャ湾岸の空からは黒い雨が。
人間から感性を奪った結果は、地球が人間に対する復讐として、やがてその姿を現すだろう。二十一世紀は人間にとってまことおそろしい、受難の世紀となるに違いない。やさしくふりしきり、空から地上にいのちの水をそそいだ時代はどこへ? 母なる海から立ち昇り、また空へ還っていく水はどこへ? この「水の輪廻」をいまという時代にもういちどわれわれは問いかけよう。合唱曲の古典といわれるこの曲の中から、われわれはいま何を描き出せるか。真剣な問いかけが、人間に向かって、社会に向かって、音楽を通じ、メッセージされねばなるまい。科学的に浄化された水に「水のいのち」は、ない。[第40回記念東西四大学合唱演奏会プログラムより転載]
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「おとこはおとこ」の後を受けて、昨秋、惜しまれて世を去ったレオナルド・バーンシュタインのミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」から抜粋したものを、今年は演奏することになりました。このミュージカルは、1973年ヨーロッパに留学していたときロンドンで再々演しているのを見ましたが、それはあの映画がすでに広く世界に公開された後でした。映画としては画期的な振り付けが殊に有名で、記録的なヒットをした名作であることは皆さんもよく御存知でしょう。その時の観客も恐らくあの映画のイメージを強くもっていたのでしょう、幕が上がってすぐ、音楽にのって一人のダンサーが(勿論プロの)クルリと一回転した途端、映画のイメージをダブらせてもっていた客席からどっと起こった笑い声に、私はドッキとしました。つまり、名作を再上演する時の難しさを、嫌というほど感じたのでした。
音楽的にも優れたこの作品を演奏したいと思っていた私も、以前一度関学でステージにかけ今回は二度目になります。あの素晴らしい映画を殆どの方がご覧になっている今日、どう対処したものか、おまけに日頃運動することから遠ざかかっているワグネリアン達をどう扱ったらよいのか、目下途方に暮れています。音楽のリズムも難しいこの曲に乗って、彼らが笑いを避けてどう動いてくれるか心配なのです。
でも、徳島の「阿波踊り」ではありませんが、見るより踊る方が楽しいのは事実。このステージから楽しそうな彼らをご覧いただければ、それが何よりの成功ではないかと勝手に考えています。
今年は日本のジャズダンス界を担っている川原あけ未さんにお手伝いをお願いしました。あけ未さんのの最近は、ジャズダンスはもとより振り付けにも素晴らしいセンスを発揮しています。
どうぞ、何分、くれぐれも宜しくと、皆さんの御好意におすがりする次第です。
今年の秋は、台風が次から次へとやって来て、日本中の人々が大変な目に遭いました。やっと秋が来て美しい色が目につきます。外に出してあったカトレヤを全部温室に入れて、暖房を始める頃になると、ワグネルの定演の原稿を書く時期になり。そろそろ近付いて来る定演のための練習が次第に盛り上がってきます。色々な曲を歌うための声を勉強し続けなければなりません。発声法というものはたしかに難しいものですが、自分の出している声を自分の耳で聴き分ける力がすべてなのです。出してはならない声を無神経に出すのは耳の力が無いからです。声楽は実技であって、深く美しい意味のある声、力強い声、あたたかい声、静かな声、すべて音楽的な声でなければなりません。世の中には色々な人がいて、屁理屈を捏ねて体操すれば、いい声が出ると信じている人達がいるそうですが、それは殆ど無駄なパフォーマンスにすぎません。先ず、自分自身で、自分の歌う声を常に聴く事が非常に大切です。聴く人々の心を動かす声を作る勉強を重ねていって欲しいと常に願っています。
木枯らしが冬空を吹き抜け、街行く人々が外套に身をつつむ頃が来ました。この季節になると、毎年の行事のようにワグネルの定期演奏会でピアノを弾いてきた私ですが、もうそんなお付き合いも20年を越そうとしています。決して短くはないこの繰り返しの中で私が毎回感慨を新しくするのは、かれこれふた昔も前の若者達も、いま私の目の前で唱っている若者達も、まったく変わらないひたむきさと歓びをもって歌を唱っているということです。さて今年は、春の六連と四連の「トスティ歌曲集」「水のいのち」、OB合唱団と合同で「タンホイザー」と3つのステージで共演させて頂きます。きっと皆さんは今年もひたむきにこれらの曲に取り組んで今日の演奏を素晴らしいものにしてくれるにちがいありません。
月日のたつのは早いもので、ワグネルとのおつきあいも3年たってしまいました。ブラームスの“愛の歌から”大中恩の“おとこはおとこ”といつも楽しく共演させていただいております。
練習場に入って、礼儀正しく、ひたむきな熱気を感じるにつけ、私に出来うるかぎりの音楽をぶつけたい気持ちにさせられます。
今年はまた、私も大好きなバーンスタインの“ウェスト・サイド・ストーリー”ですが、この曲ときいたとたんワクワクしてきました。エネルギッシュなリズムと甘美なメロディ!!
今日、ワグネルの方々とのリズムのかけあい、また、素敵なメロディーの語りあいが楽しみです。
この曲をワグネルと共演できて幸せです。
今回、慶應ワグネル・ソサィエティーを御一緒に荻久保和明氏の作品を演奏できる事は、私にとって非常な喜びであります。荻久保氏とは、大学の同期生として今日に至るまで長いお付き合いをさせて頂き、その間彼の合唱曲の伴奏やピアノ作品なども演奏致しました。彼のどの作品をとっても充実感のあるすばらしいものばかりで、私にとっては一曲一曲大切な思い出となっています。今回は特に慶應ワグネル・ソサィエティーと御一緒だけに、どのような演奏ができ上がるか、期待でいっぱいです。
ワグネルの皆さんとは、昨年の定期演奏会名古屋公演に於きまして、初めてご一緒させていただきました。その時の感想を少し書かせて頂きますと、私は、男声ばかりの合唱団との共演は経験がございませんでしたので、ワグネルとの練習をとても楽しみにしていました。
ところが、いざ一緒に歌ってみますと、彼らの演奏に圧倒されてしまって、大変ショックを受けて名古屋に帰ってまいりました。その後、演奏会当日までの一ヶ月間、自宅で毎日々々さらっておりましたことを、今、思い出します。
更に、ワグネルの歌声の素晴らしさには勿論ですが、その音楽に対する真摯な姿勢、一生懸命で爽やかな練習態度にも感激致しました。今回も、彼らの歌声に支えられて、立派な演奏が出来ますよう、最善を尽くしたいと思います。
| 作詩・作曲・編曲者より |
この「水のいのち」を、5つの楽章の配列から、「水の一生」と考える人が多いと思う。英訳すれば“The Life of Water”である。しかし私は、この題の本当の訳は“The Soul of Water”であると思っている。
“Soul”すなわち「魂」とは、低い方へ流れていく性質のことではなく、反対に「水たまり」は、泥の水ながらその表面に「空をうつそうとし」、「川」は川上の「山」にまたその上の「空にこがれるいのち」なのである。それはまた、私たちの「いのち」でもあり、またこの組曲の主題でもあるのだ。
この作品は、1964年11月10日、日本合唱協会により、指揮・山田和男で、TBSから放送初演されたが、その二日後、そのころカワイ楽譜の社長であった作曲家の清水脩さんから手紙がきた。その中には「この作品の出版は是非カワイで」という強い要請が書かれてあった。
こうして楽譜はたちまち出版されたが、宣伝らしいことは、どこでも、誰にも全くしてもらわないまま数年を出ずして北海道から沖縄までひろく歌われるようになっていった。
そんな結果は全く予想もしなかったし、それを願って書いた曲でもないので、私は今もただただ驚いているばかりである[第40回記念東西四大学合唱演奏会プログラムより転載]
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嬉しいな! 慶應ワグネルが僕の曲を歌ってくれると言う。初めてなんですよ、これが。大体僕は、男声合唱界(ものすごい狭い世界ですが)では早稲田大学グリークラブ御用達作曲家と言われている位、彼らとのつき合いが古くて深い。他には明治大学グリークラブと1回、小樽商科大学グリークラブと1回、それだけなんです。(混声合唱団、女声合唱団となると、その数ははるかに少なくなる。僕がいかに女子大生を遠ざけているかおわかりいただけると思う。)
男声合唱のために書いた曲と言えば、「季節へのまなざし」「縄文」「炎える母」「ゆうべ、海を見た」「あやとりの記」「縄文ラプソディ」「縄文“愛”」など。結構書いている。男声合唱は商売にならないと言って出版社はあまり出してくれないから、いずれも未出版。従ってめったに演奏されることもない。でも僕の曲には時々、思い込みの激しいカクレファンがいて、そういう奴が学指揮にでもなろうものなら大変。その合唱団の悲劇が始まるのだ。「荻久保作品をやろう!」と言って!
ワグネルの場合は果たしてどうなのかは知りませんが、ワグネルの悲劇の始まりにならないことを祈っております。
僕にとってのワグネルの印象は実に上品だ。そして彼らは紳士である。イヤ、別にワセグリが下品だ、田舎者だと言っているのではありません。彼らの選曲のセンスは実に趣味がよろしい。それにいい声だ。音楽に破綻をきたすこともない。イヤ、別にワセグリの選曲のセンスが悪くて声が荒く、音楽に時々破綻をきたすと言っているのではありません。
困るんだなあそれが。
美しいメロディで音楽をふち取る。もちろん君達はいつもそうしている。だがそれが祈りを求めているとしたら………。切れのいいリズムで音楽を色彩る。君達ならたやすくできるだろう。だがそれがもっとすさまじいものを求めていたら………。重厚なハーモニーで音楽をからめ取る。君達の最も得意とする所だ。だがそれがその中に痛みを内在していたら………。キレイ事でない切れば血の吹き出るような魂の叫びは君達に可能なのか? それともそういう存在自体を否定するのか?
僕は君達に真剣に問いたい。そしてこの目で見たい。僕の毒は果たしてワグネルの音楽に新たな生命力を吹き込めるのか? それとも自家中毒を引き起こすだけなのか? のみならずより強い抗体を作ってしまうだけなのか?
いろいろ書いてしまいました。ゴメンナサイ。でもそんな思いをこめてもなお、僕の正直な気持ちは、……やっぱり。
嬉しいな! ワグネルが僕の曲を初めて歌ってくれるんだ。
定期演奏会、おめでとう。1991年 晩秋
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