| 演奏者 |
| 第97回定期演奏会 |
| 9日 | (土) | 日比谷公会堂 |
| 10日 | (日) | 東京厚生年金会館大ホール |
| 演奏曲目 | 試聴可 | ![]() ▼Click&Listen | 音源を聴くには のインストールが必要です。 |
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| PROGRAM |

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第2ステージ

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第3ステージ

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第4ステージ

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第5ステージ

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アンコール
| 先生の言葉 |
音楽の世界では絶対と言うことは凡ゆる意味であり得ない。
例えば声の美しさとはケースバイケースのその瞬間のみに限定されて言い得るのであって、他の瞬間では或いは逆に醜になる場合だってあり得るのである。
いつの頃からか誰言うとなく「ワグネルトーン」と言う言葉が生まれ、ワグネリアンは得意げに文字にしたり口にしたりすることが常である。然し「ワグネルトーン」とは如何なるトーンかは、比較論ならば話も成り立つが、個性あるトーンの説明と認識は出来ることではない。
たとえ無意識的にしろ、安易な美を許容して居たとしたら斯んな恐ろしいことはない。「ワグネルトーン」が一色でよい筈はない。凡ゆる音の要求に即応すべく追求してこそ真の誇るべき「ワグネルトーン」は生まれるのである。
信時潔の「古歌」という合唱曲は18曲あるのだが此度の演奏は其の中から男声合唱として適当と考へられる9曲を抜萃し、調子とテンポ等々の関係を考案し配列して一ステージを作り歌うことにした。
古歌は元来独唱曲として作曲されたものであり、全曲は25曲からなるシリーズとされた。然し歌詞の内容や曲の骨組みが多勢で歌っても増々興趣のあるものを、作曲者自身がアレンジして作られたものである。
また同声二部或いは三部と指定されて居るのであるから、男声ばかりか女声ばかりで歌うことが出来るわけである。
極常識的には現在混声或いは男声は四部が多い。女声では三部の曲が多いのであるが、いづれにせよ二部と言う形式は非常に稀である。
一見二部の曲と言へば簡単であり、演奏は極めて容易と受け取りやすいのであるが、声楽の技術面からすれば反対に極めて困難に遭遇する場合が多い。何故かなれば旋律が独唱曲風に出来て居るからである。言葉を換へて言へば合唱曲にはないデリカシーを多勢で歌い上げねばならないからである。随って音程やリズムや言葉のニュアンスが一人でも狂って来ると甚だ醜悪な音楽になってしまう。
そればかりではなく、各声部が単なるハーモニーを作る役目ばかりではなく、一つの独立した旋律をなして居るから、各々の旋律を組み合せ乍ら、曲の「いきおい」と単純であるだけに純粋なハーモニーを伴わなければならないのである。
古歌を演奏する上でもっとも困難な問題がある。それは詞を如何に発音発声すべきかは、古語に関する限り、現在は実例を何処に基礎をおく可きか、何処に求む可きかである。手探りで演奏するしかないと言うのが本音であると言はざるを得ない。
然し推測は出来ないではない。
此の稿は学問的な場ではないのであるから、極大雑把な私見を述べておくことにする。
此度の古歌は万葉集、後撰集、拾遺集、新古今集、玉葉集の中から選ばれたものであるのだが、現在から考へれば時代的に時間的に言っても大差がないのであるから、社会生活が急変した史実はなく、随って文化面特に国語や音の世界にも大差がなかったと思ってもよさそうである。
現代の国語と「やまとことば」との異なった点はスピードと音色の差に画然たるものがあることは誰でも納得出来ることである。
スピードの点で例へて言へば、万葉時代は新幹線もなければジェット機も飛んで居ない。月などと言うものは到底達するものではなく、憧憬かロマンチックな世界であって、かってな空想をえがいて居たに過ぎない。
今や悠長な会話等かわして居たら、世界というバスに乗り遅れること必然である。
であるから「やまとことば」は悠長に大らかに発音発声しなければならないであろう。
他面音色のことも考へなくてはならない。音色は万葉時代の色が現在でも邦楽に受け継がれていると思はれる節がある。例へば謡曲や浄瑠璃や、人里離れた俚謡からも聴いて参考にすることが出来る。
色の面では絵画や衣服の色等から推測すれば的はずれにはならないであろう。
結局理解し易く言ってしまえば「やまとことば」の美しさを強調し大らかに歌い上げればよいのである。
専門的な用語で敷衍すれば、母音の音色は現代語より丸みを与へ、やや深い感じの母音にすべきであって、発声練習時の母音を其の儘用うべきでない。いわんや平板な原色に近い母音は禁物である。
子音は決して鋭くなく、母音に正比例して「ゆっくり」気味に発音させるべきである。
特に「ハヒフヘホ」は「Fa Fi Fu Fe Fo」であって決して「Ha Hi Hu He Ho」ではないことも心得ておかなければならぬ事柄であろう。
技術的な詳細に説明となると際限がない。ようするに「古歌」は悠長に大らかに歌い上げなければならない。然し言うは易く行うは難しいのである。或いは外国語より以上に反復練習し習得しなければ「古歌」のニュアンスは出ないものである。
ロベルト・シューマンがドイツロマン派主義文化の中で育ち、それに共感した音楽を作り謳歌したロマン音楽の一方の旗頭であったことは言うまでもない。
我々音楽を愛する者達の一般的通念として、シューマンの音楽は感情的空想的な微細な動きだけが特徴のように思い込んでしまって居る嫌いがなきにしもあらず、とも言い得る。ところが、さにあらざる対称的な最も男性的で粗野とも言える感情を爆発させて快哉を叫ぶ痛快さを一面持っていた作家であった。
其の証左は彼のリードの中に無数に出て来るし、ピアノ音楽やシンホニーにまで時として顔を出して居る。
また古来のドイツ学生歌も好んで作品の中に折り込んで居ることも厳然たるものがある。
斯んなシューマンの一面をもつ「狩の歌」を此度慶應ワグネル男声合唱で歌い上げてみることの意義は十分肯けることであろう。
「狩の歌」は全曲バルトホルン伴奏で書き上げてある。ホルンと言う楽器は同じ金管楽器の中でも王様と言われて居る程重要な中心的な役割の楽器であり、技術的にも最も難しいものとされて居る。それだけに表情もまた豊かである。第2曲第4曲等は狩の憂愁と悩みが余すところなく吹き込んである。
此の至難の伴奏を同じ団体である慶應ワグネルの管絃楽部の学生諸君の演奏することも快事である。
何はともあれワグネル男声合唱は伝統的にドイツロマン派音楽を好み得意とするところであります。実力が精一杯出せたら愉快である。御期待を乞う次第であります。
「ヘアー」は、日本ではもっとも不幸なアピアランスを持った。このすぐれたロック・ミュージカルが、単に“裸になるかならないか”という風俗的興味の中に、東横劇場で初日をあけたのは、何としても残念なことだった。そのために、この作品の真価を、まっとうに評価することなく、日本の音楽界は、ひとつのロック的現象として捕えたにすぎなかった。R.シュトラウスの歌曲について
今という時代を、われわれはどう受けとめればよいのか。生活のどの一部をとってみても、そこには怒りと悲しみとの屈折した感情が、毎日を埋めつくし、人間の“自然であろう”とする姿勢を突き崩して行く。われわれは何を喰べれば一番自然でいられるのか。われわれに一体どんな自然の空気が用意されているのか。文明が進めば進むほど、人間は滅亡の一途を辿るほかはないという二律背反的二十世紀の矛盾を、どう解決すればよいのか。
そこには、まず“怒り”がなければならない。ロックという音楽が、生身をさくような音響の中に誕生したのは、そうした音による革命への意志があった筈である。
わたしたちのこの団体が、ロック・ミュージカル「ヘアー」を取りあげた理由は、この作品の風俗的色彩においてではなく、流行でもなく、この作品の中に、燃え立つような“怒り”と“平和への希求”を痛いほど感じたからに他ならない。
ただ、この作品の背景にある、アメリカの若い世代のみが持つ“危機感”が、日本では現実としてわれわれの周囲にはないということは認めねばならない。徴兵――この作品の中のBe-inにおいて、次々に徴兵カードを火に投じる中に、クロードだけがこのカードを焼く事が出来なくて、一人立去るような痛切さは、日本の若者にはない。しかし、自然の中に、太陽の中に、平和の中に、花の中に生きようとするこころは、世界の共通の願いでなければならない。
Hair――誰が人間の髪を切る事を始めたのか。自然にのびて来るこの髪を、自然のままにしておくことが、何故許されないのか。われわれが自然のままであっていけないと誰が決めたことなのか。
この作品は問いかける。社会組織の中に、体制の中に入るためのパスポートとして、われわれは髪を切らねばならないのか。Airでは、深く呼吸をしなさい、という。ところが深い呼吸のたまものは、現実には汚れた空気による咳でしかないのだ。
それでも――それでもわれわれは生きることの希望を捨てはしない。
アストロジーによれば、このところ、The Age of Aquariusに入っているそうで、平和の象徴としてのAquarius(みずがめ座)の時代に入ったのは1945年以後ということになる。第二次世界大戦の終わりにつづいて、やがてベトナム戦争も終結の希望が見えて来た。このミュージカルの底を流れる痛切な“平和への祈り”は第一曲の「Aquarius」から、既にその主張を明らかにしているではないか。
シュトラウスの作品を評して、あるヨーロッパの評論家は「シャープやフラット、それもダブル・シャープやダブル・フラットの記号の中からおずおずと音符が顔をのぞかせているような」と書いたが、音楽初心者は、乱視にでもなりかねないほどの記号に、まずは肝をつぶすに違いない。絶え間ない転調の連続、息つく間もない異名同音の襲撃で、ベテランの四年生でも、この夏の合宿はさすがに音(ね)を上げたようである。
音符がまったく読めない連中に、「そこの変トの音は嬰ヘ音に読みかえる」と云っても、何が何やらわかるわけは全くない。パート・リーダーは本当に苦労したことだろうと思う。それでも、レッスンの回を重ねるごとに、R・シュトラウスの音楽の姿が、少しずつでもうかび上って来るのがたのしみであった。
R・シュトラウスの音楽は、19世紀に発達し切った機能和声による技法の最絶頂を行くものであり、同時に20世紀前半にあって、シェーンベルクなどの無調、十二音技法による現代音楽への緒を作った。絶え間のない転調が、調性の持続を破壊したのである。しかしその本質は“リリシズム”にあると云って過言ではあるまい。彼の音楽の底に流れるドイツ的抒情は、ドイツ後期ロマン派の完結を意味したのである。
ワグネル男声合唱団は、シューベルト、シューマン、ブラームス、マーラー、ワーグナーを体験して来た。今年はもう一歩進んで、R・シュトラウスの作品に挑んでみようと意図したのも、理由のないことではない。数年前、「R・シュトラウスによる五つの愛の歌」として、福永陽一郎君から、シュトラウス歌曲の男声合唱版を福永編によって私に献呈の辞と共にいただいたのだった。しかし、その時のワグネルには、まだこれらの作品をこなす力はなく、それらの作品は福永君の棒で同志社グリーが初演したのである。
今回はその時の作品の凡てではなく、新しく御願いして「子守唄」や「春の祝祭」を編曲していただいた。
11月は死者の月。死んだ者たちの霊がかえる万霊節の、初冬の季節に、嘗っての5月のように、もう一度愛を語ろうと、死せる者へ呼びかける清冽な抒情の「万霊節」。恋の官能へ誘う憧れの夜を爽やかに歌う「ひそやかな誘い」。デーメルの優しい詩につけられた美しい「子守唄」。静謐のひとときを流れる明日への幸せの祈りを歌う「明日こそは」。そしてギリシャ神話に出て来るアドーニスを失って、泣き叫んでいる春の女神たちの嘆きを劇的に歌いあげる「春の祝祭」。――これらの歌たちが作り出す「抒情の世界」が、この夜、見事なひびきとなってステージから流れ出すよう願わずにはいられない。
ブレスからハミングに始ってのあらゆるヴォイス・テクニックの練習を毎回一時間余りやっているが、時には途中から問題のある声を出すメンバーの個人レッスンになってしまう時もある。
まず僕のおもっている基本の徹底を何が何でもしなければならないので、毎回それを確かめ、各パート、各個人のテクニックを見守りながら、次第に高めてゆくように心がけている。
しかし何と云っても一番大変な大仕事は四月にワグネルに入って来る連中の声なおしと云うか声作りの時である。非常に個人差があって、中にはすぐにでも上級生の中に入って歌えるものもいるが、やはり殆どのものは大仕事の必要なもの達で、すぐにトレーニングを重ねる。
初めの声は全く聞くに耐えないものであっても各自の努力と忍耐とによって苦しさを克服し、やがては歌う声になってゆくその経過を見守っているのは、僕にとっても大きな楽しみとも云える。
現在のワグネルは巾の広い作品を取りあげて演奏している。しかしその数多くの作品一つ一つに求められる音楽の声をいつも鍛練して身につけていなければならない。
ワグネルの諸君に望みたい。一人一人がもっと厳しい構えをもって声楽にぶつかってほしい。大きくより厚い壁、いくつもやっては来るが、その壁をぶちぬいた後の歓びの尊さは貴重なものである。
諸君の音楽に対する愛と気迫によって、高い芸術に近づいていってくれう様に僕も共に努力してゆきたい。
| 作詩・作曲・編曲者より |
この組曲は、京都の立命館大学メンネルコール昭和43年度卒業生一同が卒業に際し、記念として後輩に贈呈するために特に委嘱を受け作曲した。自分でいうのもおかしいが、私の作品の中でも柳河風俗詩や雨と同様切れのいい印象をもって書き綴ることが出来た部類に属している。中でも第二曲の「黒い蛙」には特別の愛情を感じているが、この レシタティヴォを主体にした「月光の夜のすさまじいばかりの美しい情趣」を今宵慶応大学ワグネルソサイエティ男声合唱団が採りあげてくれる。レシタティヴォを良くこなせる団体が少ないだけに、今宵の演奏に十分の期待をかけている。
× × ×
- 桂離宮竹林の夜
冒頭の「こりらら るびや びすだあやあ」のリズムは、私がこの詩を草野心平先生の口から直接聴いたときのリズムそのままである。先生は、あのつやのある低い声で目を細めて「こりらら るびや ぴるだあやあ……」とつぶやくように繰り返してから「大竹林は……」と坦々と朗読された。
そのときすでに私の頭の中にはこの第一曲のモチーフが生まれていたが、私の好きな言葉である「竹林」「和讃」「亀の甲」などの織りなす光景は一ぷくの山水画に接する心地であり、特に「多くの蛙の声が池をこえ松をこえ離宮南端の茶亭笑意軒まで流れていく」という段では快い感動が身体の中を走っていった。- 黒い蛙
第一曲が月夜の蛙の群を主題にしているので、組曲の構成上、二曲目はこれと対称的な詩をもってこようと探しているうちに、この見事な「黒い蛙」を見つけた。「凡竜」という醜い、ぬらぬらした、好色漢的輪郭が想像される黒い蛙の動きが「紫陽花」「僧坊」「月あかりの矩形」「少女の黒髪」といった美しい言葉の間を縫って独特の情感を盛りあげていた。私は京都大学の学生だった頃、月夜の竹林や僧坊をよく見ていたので、またたく間にこの曲を書き上げてしまって。
- 五匹のかえる
こうした第一曲と第二曲のあとには、当然スケルツォ的な曲が必要なのでこの曲を書いた。最後に「青大将」という言葉があるので第四曲の「蛇祭り行進」との連繋もうまく行った。
- 蛇祭り行進
草野先生は「この詩は何人かの人が作曲してくれているが、行進曲であるから終始同じテンポで作曲してほしい」と言われた。私はその趣旨に沿って「イン・テンポ」で書いてみた。