1962年12月
| 15日 | (土) | 東京厚生年金会館 |
| 16日 | (日) | 東京厚生年金会館 |
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- 畑中指揮 古典イタリア歌曲集
- 学生指揮 Second Mass
- 木下指揮 Schubert男声合唱曲集
- 畑中指揮 ミュージカル「New Moon」より
- 畑中指揮 組曲「月光とピエロ」
- アンコール
先生の言葉 畑中(1)・畑中(2)
作詩作曲編曲者より 福永
慶應義塾塾歌
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第1ステージ
古典イタリア歌曲集
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- Amarilli, Mia Bella
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- Lasciatemi Morire!
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- Chi Vuol La Zingarella
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- Tu Mancavi A Tormentarmi
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- Gia Il Sole Dal Gange
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第2ステージ
Second Mass
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- Kyrie
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- Gloria
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- Credo
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- Sanctus
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- Agnus Dei
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第3ステージ
Schubert男声合唱曲集
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- Hymne op. 154 《讃歌》
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- Nachthelle op.34 《夜明り》
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- Der Gondelfahrer op.28 《ゴンドラを漕ぐ人》
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- Nachtgesang Im Walde op. 139 《森の夜の歌》
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- 作曲 F.Schubert
- 指揮 木下 保
- ピアノ 井上直幸
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第4ステージ
ミュージカル「New Moon」より
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- Softly As In The Morning Sunrise 《朝日のごとく、さわやかに》
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- Funny Little Sailor Man 《可愛い水兵さん》
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- Wanting You 《君を求めて》
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- Lover Come Back To Me 《恋人よ我に帰れ》
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- Stout Hearted Men 《強き意志の男》
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- 作詩 O.Hammerstein
- 作曲 S.Romberg
- 編曲 福永陽一郎
- 指揮 畑中良輔
- ピアノ 井上直幸
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第5ステージ
組曲「月光とピエロ」
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- 月夜
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- 秋のピエロ
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- ピエロ
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- ピエロの嘆き
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- 月光とピエロとピエレットの唐草模様
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アンコール
- おてもやん
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- Treue Liebe
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- 我が母の教え給いし歌
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- 丘の上
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専任指揮者・畑中 良輔
古典イタリア歌曲集
昨年の定期には、トスティの歌曲をとり上げてみたが、今年は十六、七世紀の古典イタリアの声楽曲を五曲集めてみた。
私がワグネルの男声合唱を受持ってから、今回が三度目の定期演奏会であるが、何とか「声楽的な声」に近づけたい一心でワグネルの諸君とこの三年を過ごしてきた。昨年のトスティで、イタリア語による発声訓練が、ずいぶん声のためになったように思う。さすがに belcanto の国だけあって、イタリア語は、声のフォームを作る上にとてもよい課題を多く含んでいる。
母音の多さなどで、イタリア語は、日本語と似ているとよくいわれるが、それは大変浅い見方、聴き方をしている人だといわねばならない。「ア」の音一つにしても、「のどのフォーム」は全然異なっていることを、ワグネルの諸君は昨年学んだはずである。イタリア語の二重母音、三重母音は、舌根、下顎の余分の力の緊張を和らげるのに役立ち、凡ての母音はナマの音色を受けつけない。
今夕の古典歌曲は、古典の中の珠玉中の珠玉ともいうべき名曲であり、この三百数十年を経た今日に於いても、その歌のいのちが生きているこれらの曲は、さらえばさらうほど光沢を増して来る。
古典歌曲にあっては、この古典的な様式感の中で、自己の感情におぼれて、激情的な表情をもって歌うことは許されない。おおげさな抑揚や、テンポの緩急、思い入れたっぷりのリタルダンドなどは、ロマン派の音楽には許されても、この古典歌曲にあっては許されない。あくまで清潔に、素朴に旋律を浮かび上がらせる訓練が必要である。この節度ある表現法こそ、歌の基本的な訓練であって、感情を露出させることが、歌の音楽的表現であると間違ってはならない。この古典歌曲の美しさに触れた人はしあわせだと思う。これほどまじり気のない純粋な歌はないからである。それだけに、これほどごまかしの利かない歌もあるまい。
第一曲の Amarilli, mia bella はカッチーニ Giulio, Caccini(1546〜1614)の代表的歌曲である。彼はフィレンツェのメディチ家のリュート奏者と歌手を兼ねた作曲家で、ペリと共にオペラの創始者として知られる。この曲はマドリガルとして書かれ、流麗なメロディの中に、典雅な精神を盛っている。このメロディを美しく歌い上げるには、声楽的に至難のテクニックを要求される。即ちムラのない饗鳴と、完璧なブレスの支え、――これらの有機的な相互作用が必要なのである。
第二曲、Lasciatemi morire!は、モンテヴェルディ Claudio Monteverdi(1568〜1643)の作品の中で、最も知られているアリアであり、これはオペラの「アリアーナ」の中に含まれているもであるが、これは現在、「アリアーナの嘆き」の部分の断片しか残されていなく、このラメントの最後の部分がこの曲になっている。しかしこのラメントは当時聴衆の熱狂的支持を受け、モンテヴェルディ自身が、マドリガルに編曲し、当時大流行したものである。
モンテヴェルディは、オペラの表現の幅を拡げた人で、近代音楽への道を樹立したといえよう。彼の劇的な音楽の表出法は、その多くは半音階的感動の表現をとり、当時の保守的作曲法から、写実的な個性を産み出し、中期バロック様式にまで突進した開拓者である。それは僅か十九小節しかないこの歌に中にも充分に感じることが出来よう。
第三曲 Chi vuol la zingarella はナポリ派の人気者パイジェルロ Giovanni Paisiello(1741〜1816)の軽快な曲である。オペラ・ブッファ(喜歌劇)の作曲家として名をなした人だけに、前二曲に比べて、ナポリ人好みの性格を反映していて興味深い。又当時の貴族文化の都市フィレンツェと、この商人と庶民の町ナポリとの、都市の成立、発展から来る性格の差も感じられよう。
第四曲 Tu mancavi a tormentarmi はチェスティ Marco Antoinio Cesti(1620〜1669)の最も良い面の結晶した作品である。この長いダ・カーポ・アリアは、この時代のものにしては、ロマン的な表現をとり、和声と旋律と詩の融合が見られる。
この優美までな旋律は、古典イタリア歌曲の中で、最も心に沁みるもののひとつであり、私の最も好きな曲である。しかしこの至難の曲はとうとう今まで私の手に負えなかった。私の貧弱なテクニックで、この美しい旋律を美事に歌い上げることは到底不可能だったからだ。
今夕、私が学生時代から充たせなかったこの曲への憧れを、ワグネルの諸君に托して歌って貰おうと思う。この曲への限りない思慕が私の棒の先から流れ出してくれば良いのだけれど。
この曲を振っていると、いろんな昔のことが想い出される。この曲を貰って、とうとうこなせなくて、先生の前に持って行けなかったこと。そして忘れたふりをして、次の別な曲とすりかえて、何喰わぬ顔をしてレッスンを胡魔化してしまったこと。しかし私の心はそのことで、どんなに悲しく、充たされなかったことか。
あの頃はまだ十代だった。それにこの曲が、今こんなに心に沁みるように、あの頃は心に沁みなかったのだろう。
ワグネルの諸君はどう思って歌っているのだろうか。どの顔もチェスティの音楽にとけ込んだような顔をして歌ってくれているようにみえるのだが、それは私の感傷過多の故かもしれないし、私の少年の頃よりも、ワグネルの諸君等の方がより豊かな感受性を持っているのかもしれない。
それはどちらにしても、私は私なりの感動の仕方で、この Tu mancavi を振る。そうして、時には、ぼくの目が涙でいっぱいになるのを諸君も知ってくれているに違いない。
第五曲 Giá il sole dal Gange はスカルラッティ Alessandro Scarlatti(1659〜1725)の数多い歌曲の中でも、最もポピュラーなもののひとつである。ナポリ派の巨匠にふさわしく、キビキビした律動、絵画的な効果を狙って、当時のナポリの人達の人気を集め、二百曲に余るミサ、百曲以上ものオペラを書いている。
これらの5曲はいずれも北村協一君に編曲を御願いした。今後こうした古典のイタリアものを、ワグネルのみならず、各男声合唱団の方達も手がけることをおすすめしたいと思う。必ずよいものを得られることと確信するからである。
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ぼくの「月ピエ」
日本の創作合唱曲の中で、「月光とピエロ」は、ぼくの最もやりたいもののひとつだった。
しかしこの曲のむづかしさは言語に絶するものがあり、声域、技術、発声のフォーム等々のアンバランスがある限りに於ては、到底とりかかる事は不可能であると思っていた。
今迄この曲を、いろんな人の指揮で何回きいただろう。そのたびに「月ピエはオレがやればあんなに振らないのに」といつも思ったものだった。演奏行為というものは、たぶんに弁証法的なものであり、他の人の「月ピエ」の演奏に反撥するところからぼくの「月ピエ」観は生れたといってもよいかもしれない。
今年の「六連」で「月ピエ」を振ったが、ぼくの「月ピエ」は他のひとたちの御気に召さなかったとみえる。しかしそんなことはどうでもよいことなのだ。たゞ大切なことは、ぼくと、そしてぼくの棒のもとで歌ってくれたワグネルの諸君の間に、無言の密着した意志の疎通があったか、なかったかということだと思う。
ぼくが、ぼくの「月ピエ」で一つのアンチテーゼを出そうが出すまいが、それはワグネルとは関係のないことだし、ぼくは、ぼくの interprotation に飽くまで忠実にならなければならない。
ところが、ぼくはこの時、実に意外な発見をした――というのは、この「月ピエ」は妙に指揮者の客観性を奪い去ってしまう曲なのだ。
ピエロは実は指揮者であるのかもしれない。「笛吹けども踊らず」という言葉があるが、指揮者が熱くなっているほどに、歌う方も、聴く方も熱くなれないのではなかろうか。ぼくがそう思ったのは「六連」の初日がすんだ夜、床についてからだった。それからぼくは、ずいんと、地の底へ引き込まれたような心の痛みを感じ、困乱が、ぼくに押し寄せて来た。
いろんな人の振る「月ピエ」が、ぼくの耳の中で鳴る。そして、ぼくはそのたびに「違う! 違う! 違うんだ!」とわめきつゞけていた。しかしたしかに云えることのひとつ。
それは「月ピエ」は指揮者を熱く、盲目にさせる曲に違いないと云うこと。
そしてぼくは「お熱いのがお好き」だから、やはり定期に「月ピエ」を出すことにした。そして「自分が思ってるほど他の連中は熱くなってないんだ」と自分に云いきかせようと思う。大体ぼくはすぐカッカッとし過ぎる傾向があるから――と(何と良い態度!)“反省”し、改めて「月ピエ」を練ることにする。さて、その結果どんな「月ピエ」になったか――それが今夕のおたのしみということになるわけなのです。
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福永 陽一郎
自作が――たとえ編曲であっても、現在のワグネル男声にうたってもらえるというのは、幸運なことだと云わねばなるまい。
ワグネルのために「ニュームーン」の組曲を書くということは、一昨年来の、ブル先生との約束であった。
ブル先生が、アメリカのミュージカルを、レパートリーとしてとりあげるとき、それが、流行のロジャースやバーンスタインなどでなく、ロンバーグであるというのは、先生の音楽観から云って、至極当然であろう。何故なら、ロンバーグは、悪く云えば古くさいほど、オーソドックスなヨーロッパの作曲法で仕事をしているからで、単に、ポピュラリティのあるメロディで、少しばかり気のきいた包み紙でくるんだキャンディとは違うからである。ウィーンのボンボンとでも云えそうな、あのブラームスさえうらやんだという、シュトラウス一家の影さえ感じられるのである。
それと又、男声合唱のレパートリーとして「学生王子」に続くものが「ニュームーン」であるのも、アイデアとして秀抜である。両方とも、学生とか、船乗りとかの、若い男の世界をえがいたミュージカルだから、コーラスは元来男声で、ナルホドなと、ブル先生に云われるまで気がつかなかった自分のウカツさに、少々、口惜しい思いをした次第である。(「朝日の如くさわやかに」や「恋人よ我に帰れ」は、とっくにボクのレパートリーだったけれど、組曲になるのは、日本で初めての筈である)。
ところで、この編曲は、今年の正月にプランが出来上り、実際に書き上がったのは、6月の末であった。
練習は、まだ一度もきいていないけれども、様子をきくと、編曲にしみこんでいるボクの体質が、必ずしも、ブル先生の体質と合わないところがあるようで、少々、お困りだったらしい。ボクはオーケストラでも、コーラスでも、いっぱいに鳴らすことが好きで、鳴りそうなところは、コレデモカーッというくらいにやりたいところがあり、ブル先生は、ボクより身体が太っている分だけ、しつこさがない方だから、多少ウンザリされたのだろう。
しかし、どのようなものも、自分のものとして料理し、ちゃんと美味しく食べられるものとして差し出すことのお上手なブル先生のことだから、そのお手並みが楽しみである。ましてや、持ち駒がワグネルである。編曲者のボク自身が嬉しくなるような、いい演奏が聞けるだろうと、大変楽しみにしている。
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