| 演奏者 |
| 第85回定期演奏会 |
| 10日 | (土) | 神田共立講堂 | |
| 11日 | (日) | 神田共立講堂 |
| 演奏曲目 | 試聴可 | ![]() ▼Click&Listen | 音源を聴くには のインストールが必要です。 |
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| PROGRAM |

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第2ステージ

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第3ステージ

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第4ステージ

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第5ステージ

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アンコール

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| 先生の言葉 |
田舎の中学生(勿論旧制)時代に、私の先輩が慶応義塾大学に三人程在学して居て、春夏冬の休暇には必ず帰郷して來て、彼等とよく学問(?)を論じ、人生を論じ、芸術や恋愛を語り合い、塾の模様などを話してきかせて呉れる時、折にふれてワグネル・ソサィエティーの全国的な活躍ぶりを聞いて、若き胸をおどらせていた頃から、既にワグネルの名は知っていたわけであります。
中学修了後、何かの間違いで上野の音楽学校に入ることになり、声楽家の学生になってしまったのです。当時のワグネルの指揮者であり、音楽学校でも合唱の授業を担当して居られた、故大塚淳先生には特にマークされて居たようです。と言うのは、声楽の学生のクセに合唱音楽には滅茶苦茶なファイトを燃やしたり、又生意気にも絃楽の学生に混じってストリングクワルテット(私はいんちきヴィオラ)を作って居たりしていたので、この道楽学生は卒業したら、案外ワグネルの実戦部隊で使えるとの魂胆があったらしい事が大分後になってわかって来たのでした。
兎に角落第もせず無事卒業して研究科(大学院のようなもの)に入ったものの、大塚淳先生は待切れず、私をワグネルの演奏会に引きづりだしてしまわれたのです。ですからワグネルと私は、此の時から直接親しい間柄になってしまったわけです。
当時のワグネルは勿体ない位の立派な専用ルームを校内に持って居て、放課後や授業の合間には各々たむろして、練習したり雑談に花を咲かせたりして、毎日毎日楽しい学生々活を満喫して、さながら塾の特権階級の感がありました。
春秋年二回の定期演奏会や演奏旅行には塾生に早替りして、オーケストラの手不足のパートを手助けしたり、男声合唱の指揮を受持ったり、ピアノ伴奏までして、楽しかった若かりし頃を、今も昨日のように思い出します。
懐旧談になってしまって申し訳ありませんでしたが、今日まで仲良くお付き合いが出来ました事は、一口に言って、ワグネルの仲間の皆さんが、全ての時代を通じて、唯々音楽を愛する純粋さと、若き情熱を打込んで行く美しい姿が、こよなく好もしく私を引きつけて来たのです。そして将来も、ワグネルの空気が急激に悪化しない限り、私のワグネルへの愛情も変らないでしょうし、今更変ってはならないと思って居る次第です。
音楽に一寸でも関心を持つ程の人なら、シューベルトと云えば、すぐ「未完成交響曲」「セレナーデ」「菩提樹」其の他数々の歌曲を思い浮べる程、有名な作品ばかりであるが、合唱曲となると、我国では余り上演されないせいか、それ程でない事は常々残念に思って居た次第であります。
シューベルトは合唱曲の分野に於いても又多くの名作を残していて、其の業績たるや誠に偉大なものと云わざるを得ない。 演奏時間二時間以上を要する「変ホ長調ミサ曲」や「変イ長調ミサ曲」の如き大作、其の他数え上げる事の出来ない程の多くの宗教曲、混声、女声、男声合唱曲は、彼の短い生涯にも拘らず多数の名作を書き上げたのであります。
此等凡ての合唱曲の特長を一口に云えば、他の何物にも較べる事の出來ない、美しい旋律が流れ、人の心を捉えてしまいます。本日ワグネル男声合唱団の演奏する曲も、無条件に美しい曲であります。御期待下さい。
今年の3月、ワグネルの指導を頼まれた時、私は正直の所「これは困った事になった」と思った。私は今までいろんなコーラスの棒を振って來たけれど、素人の合唱団を手がけた事がなかったからである。
ワグネルの演奏は二、三度聴いた事はあったが、やがてそれが我身にふりかゝってこようとは思わないから、ぼんやり聴いていた。はじめは、ヴォイス・トレーニングだけという約束だったので引受けたのだったが、とうとう棒振りもやらされることになってしまった。
初めの練習は、私も不安だった。果して私の感じている「声」を「音楽」を感じとって貰えるのだろうか―――
最初の5分が過ぎ、10分が過ぎた。
私の不安は去った。そして音楽への限りない希望が私の心の中に溢れて来はじめた。
これほどワグネルの皆が「音楽」に対して敏感であろうとは予想もしなかった事だった。勿論、声の使い方のテクニック、―――声のフォーム、ポジションの確立、音色の変化、そう云った技術の問題はすぐには片づきはしない。これは長い間のお互の忍耐が必要だ。それを教える者と、教えられる者との協同作業だ。決して焦っては正確なテクニックは得られない。
真実を極めること―――声の正しいあり方を見極めて、その上で豊かな音楽の実を一人一人が育てて欲しい。
ハーモニイの美しさにふれた人は、その激しい生命の歓びがこの一瞬に燃焼する事を知るだろう。そしてワグネルの連中は、この歓びを充分に味わうだけの素質があるように思われる。私はそれを最大限に引き出してみたいと思う。
音楽する心――それが一人一人の心の中に輝き渡り、一生のうちでワグネルで歌っていた時が一番純粋だったと思えるように「音楽」と云うものの中に諸君を強引に引張り込みたい。
又、君達にはそれが出来る筈なのだから。
初夏、前橋に演奏に行った。中也、朔太郎、道造――ぼくの生涯に影響をあたえてくれた三人の詩人のうち、朔太郎の生まれた街である。宿につくと、女中に「朔太郎の墓はどこですか?」ときいてみたが要領を得ない。ままよと宿を飛び出した。以前何かの雑誌に、朔太郎の墓は繁華街近くにあると書いてあったのを微かに記憶していたので、街へと出て行く。本屋なら知っているかと思って訊ねてみても知らないという返事。成程、朔太郎にとって前橋は住みにくかったのかな、と「郷土望景詩」と思いながら歩く。あてどなく歩いたものの、さっぱり寺らしいものはなく、やっと焼跡のそれらしい所をみつけて急いで行ってみると何んの事はない神社の祠。汗で濡れたシャツを初夏の風の中で、「若し朔太郎と僕と縁があるなら、墓に行きあうだろう。逢えなければそれまで」と心を決めて歩きに歩く。突然けたゝましいサイレンの音がして人だかりがしはじめた。人が車に轢かれたらしい。僕も立ち止まってしばらく人だかりの中にいて、ふと横を見ると映画館の後ろに墓地らしきものが見える。倒れかけた石の柱の間を抜けて行くと墓が並んでいる。横のお寺らしい所で案内を乞うと感じの好い奥さんが現われた。
朔太郎は街の喧噪の中で萩原家代々の墓の中にひっそりと眠っていた。
白昼、こゝだけが凡てに取残されたような真空状態の中で、僕は水を手桶にもらい、花屋を探し、中学校時代僕の心の中に翳を落して行った朔太郎の墓の前でじっとしていた。
| 作詩・作曲・編曲者より |
ワグネルのクラブソングを依頼されてから、随分長いことになる。やっと書き上げることが出来てほっとした。
これはコンサートの歌ではない。ワグネルの連中が集ってミイティングをした後とか、自分達が楽しい気分になった時に、歌ってほしいと思う。そういうつもりでこしらえた。それがクラブソングのあり方だと思う。
僕も又、ワグネルの会合の時、皆んなと一緒になってこの歌を歌えると思うと、今から心がはずむようだ。
畑中さんもどうぞそのつもりで、楽しいメロディをつけて下さい。
この8月の始めだったと思う。福永陽一郎君に遇ったとき、彼はワグネル・ソサィエティの男声合唱団がこの処非常にうまくなったと言っていた。3月ごろに、学生諸君が訪ねて来て作曲を依頼されていたので、この話で作曲するのを楽しみにしていた。
8月末までと言う約束であったが、のびのびになって10月中旬やっと脱稿したときは、ほっとした。あとは指揮者の畑中良輔君と学生諸君に委せる外ない。
前々から、畑中君はぼくに朔太郎の詩に作曲することをすすめてくれていた。こんど初めて朔太郎を作曲してしかも当の畑中君のバトンにかゝることになった。それだけにこの発表は大いに楽しみにしている。
「今年のワグネルはうまい」ということを私は会う人毎に言って来たようだ。それ程今年のワグネルの演奏には音楽性があり、またその音楽性を導き出す手段である技術的努力(就中私の側から見れば私の常々主張する音符の肉付けの変化に基づく表現)の跡がはっきりわかる程である。こうしたうまさは(聞く所によれば)畑中良輔氏による発声指導と合唱指導の両輪が、今年のワグネルのメンバーの若々しい原動力に支えられて実に無駄なく回転して来た結果にも基因しているらしい。
今、私には、今年のワグネルの一連の名演奏を来年も再来年もこれからずっと毎年聞きたいと言う願望が絶えず残ってきている。関西学院グリークラブが、永年概ね学生指揮者を中心にあれ程の伝統を築き上げてきたと同じように、ワグネルの場合も今年だけの線香花火にならない様努力して頂きたい。
諸先生方の中から抽出し得る色々な技術的要素や音楽性を、ただ機械的に受け入れるのではなくて、ワグネルのこれから陸続として続く後輩達の為に、少しでも多くの要素を体系化して行って欲しい。これは決して威丈高の忠告ではなくて、男声合唱好きの私の、毎年今年のような演奏を耳にしたいと言う、ささやかな願望が、こう言わせないではおかない言葉なのだ、と言う風に解釈して頂きたい。向後のご活躍を祈る。
六大学合唱演奏会では畑中良輔氏の指揮で、四大学合唱演奏会では木下保氏の指揮により大変素晴しい演奏をしたワグネルが今年で60周年を迎えるという。「今年はワグネルの年」と言われた過日の好演は決して奇跡ではない。60年の歴史を唯々最上の音楽を追求して一歩一歩力強く歩んできたクラブ員の一人一人の努力が、この祝すべき年に一つの大きな成果として表われたのであろう。私は心からおめでとうと申し上げたい。
昨年の定期でロバート・ショウ編曲のアメリカ民謡を指揮する機会に恵まれた私が、今年も「学生王子」の編曲と言う形で再びワグネルの演奏会に参加する機会を持てた。
「恋人よ我に帰れ」の作曲者として有名なロンバーグの「学生王子」は、映画「皇太子の初恋」として日本で公開されたが、あの青春の息吹きを畑中良輔氏の指揮により再びワグネルの演奏を味わえるのだと思うと、編曲の仕事が楽しくて仕方がなかった。氏は「学生王子」が余程お気に入りとみえ、以前にも氏の指揮による演奏を知っている。ひょっとするとこの曲は、氏の青春の一頁に忘れられぬ想い出を秘めているのではないかと思っている。
ワグネルは大変表現力の豊かな魅力ある合唱団である。それは立派な指揮者を迎えている事にもあるが何よりワグネルが真剣に音楽と取り組む態度のもたらすものだと思う。
記念すべき今夜の演奏会も、画期的な名演奏をワグネルがすると確信して止まない。
創立60周年を迎えたワグネルの男声合唱団が今年前例のない程すぐれたコーチングスタッフを持っている事は、他の名門グリークラブの羨望のまとになっていますが、なかでも畑中良輔氏の常任指揮者就任は、全く目ざましい効果をあげ、日本合唱界の耳目をワグネルに集めてしまった感があります。その畑中氏につながる縁でボクも久しぶりに現役諸君と仲良くなりました。
元来、ワグネルとは因縁浅からぬボクで、まとめていうとワグネルがなければ東京コラリアーズは存在せず、東コラがなければ合唱音楽家としてのボクも、今のような存在はなかったかもしれません。そのワグネルがこゝしばらく前の頃、かなり長い間、余りパッとした演奏もせず沈滞しているのをいろいろ複雑な気持ちで残念がっていたボクが、今年の素晴しい活気あるワグネルに接してどんなに喜んでいるか筆につくせないほどです。良輔さんとワグネルのために、どんなエンの下の力持ちでもひき受けようと思っていましたが、結局編曲一曲を捧げるに止まってしまいました。でも「大阪子守歌」はボクが大切にしていた材料ですので、それが今年の美しいワグネルによってステージにかけられるのは、この上ない喜びです。原作者の清水先生も喜んで下さると思っています。
60周年のこの素晴しい業績をスプリングボードとして、ワグネルが日本男声合唱界の旗頭になり、活動を発展させてくれることを、心から期待しています。
| 座談会 |
“ワグネルを語る”ご出席木下 保(顧問指揮者) 畑中 良輔(専任指揮者) 梅原 文雄(元指揮者 OB) 田中 弘之(学生指揮者) ・ 司 会 長谷川 裕(学生責任者) | |
|---|---|
| 司会 | 今日はお忙しい所を有難うございます。ワグネル60年の演奏活動を中心として、過去・現在・未来にわたってお話し願いたいのですが、木下先生は何年頃ワグネルにお出でになったのですか? |
| 梅原 | 私が入ったのが昭和4年ですから、その2年前位ですね。 |
| 司会 | 大塚先生の欧州旅行の後ですか? |
| 木下 | 大塚先生は器楽の方で、私は先生について来たのですが「お前、コーラスをやれ」と云われて、始めたわけです。当時、部員は20名位でしたので毎年心配でした。然しアンバランスと云うことは無かったですね。演奏会の40日前頃から練習を始めたものですが、当時はコールユーブンゲンをやっていました。 |
| 梅原 | 私共の仲間うちの練習といったものでした。 |
| 畑中 | それならば行き届いた練習が出来ますね。 |
| 梅原 | そうなんです。当時はワグネル声楽部と云って、規則書には個人練習を行うと明示してありました。最初の間は、合唱団として会員を集めたのではなかったと思います。オーケストラも器楽部と云っていました。 |
| 司会 | 畑中先生、それでは今とは大分違いますね。 |
| 畑中 | そう、今は人数が多いから一寸やり難いですね。 |
| 梅原 | いや、然し団体で尚今のような指導が出来ると云う事は、私共大変驚いております。 |
| 司会 | 当時の面白い思い出を一つ。 |
| 木下 | あの頃は皆若い人達で、人数も少なかったから、大塚先生にくついて、毎晩のように遊び歩きましたよ。大塚先生は、大変な飲ンベエでね。先生のことをオヤジと呼んで親しみましたね。 |
| 畑中 | それでは木下先生のことは何というの? |
| 木下 | モクさんと云われましたね。大塚先生あたりの云われ出したことだと思います。それがワグネルから上野に広まって、いまだにモクさんです。 |
| 梅原 | 私が入った時に朝鮮へ演奏旅行をしたのです。ところが合唱がなんとドッペル・クワルテット8人なんですよ。 |
| 木下 | その時の僕の役目が重要でね。先ず歌のピアノ伴奏、それにヴィオラ弾きだったんです。 |
| 畑中 | アレ、先生ヴィオラですか? |
| 木下 | えゝ、僕は最初はヴァイオリンでね。それがどうかした拍子に、上野に入って“歌うたい”になり、それから大塚先生に連れられてワグネルに遊びに来る様になったのです。だからヴィオラ弾きがいない時なぞ、楽器を弾いていました。 |
| 一同 | それは大変でしたね(笑)。 |
| 司会 | その時の旅行は、どの位の期間でしたか? |
| 梅原 | 九州でもやりましたから、10日間位だったでしょう。当時はオケと一緒だから、楽器運びなど大変な重労働でした。 |
| 畑中 | 定期演奏会は毎年1回だったのですか? |
| 梅原 | いゝえ、ずっと年2回、春と秋でした。そしてアトラクションの様にソリストを呼びましてね。だからその頃はワグネルの定期は新人の登竜門の様になっていました。三田山上の大ホールで演奏したわけですが、当時は立派な会場だったわけです。 |
| 司会 | 何人ぐらい入れる会場ですか? |
| 梅原 | 3階までありましたから……。 |
| 木下 | そう、400人位でしょう。それが当時の大ホールだったのですからね(笑)。 |
| 司会 | 声楽部はどう云う曲をやっていたのですか? |
| 木下 | リーデル・シャッツを原語で歌っていました。 |
| 畑中 | 「ドナウ河の漣」は、ワグネルの初演だそうですね。聴衆は皆慶應の歌だと思ったとか(笑)。 |
| 梅原 | そう、きれいな詩がついて、慶應から外へ広まっていったんですね。 |
| 畑中 | ほう、そうですか。 |
| 木下 | その意味でワグネルは当時の先端をきっていて、注目されていたわけですよ。 |
| 司会 | そうしますと、木下先生は昭和何年頃迄いらっしゃったのですか? |
| 木下 | 外遊するまでだったかな。 |
| 梅原 | いや、大塚先生の外遊の間は橋本国彦先生にお願いして、それから大塚先生と入れ替りに木下先生が外遊されたわけです。ですから4〜5年の間だったと思います。 大塚先生が帰国されてからは、再び先生にお願いしたのですが、その後先生が満州国に招聘されてからは、当時名フルート奏者と云われた山口さん、予科を6年やられたと云う方ですが、山口さんが芸大にお入りになったので、声楽と器楽の両方を3年間程指揮して頂きました。それが昭和11年から14年位だったかな。そして山口さんが過労から亡くなられたので、私共未だに覚えていますが、音楽葬を行いました。ワグネルと上野のオケ、合唱が合同で演奏し、N響の吉田さんが「アルルの女」のメヌエットを霊前で吹かれたのを覚えています。その後指揮者難で弱りました。財政上の理由もあって、オケはワグネルの菊池双二郎さん、合唱の方は止むを得ず私がやることになったのです。適任の方が見つかる迄と云う事だったのがとうとう戦後まで続いたわけです。 |
| 司会 | それで年代は大体解りましたが、定期演奏会は、ずっと年二回大ホールで行う形式だったのですか? |
| 梅原 | えゝ、学徒出陣で解散の様にしてやめる迄行っていました。戦後21年に帝劇で復活する迄止めたわけで、それ迄は春秋2回開いていましたね。当時は演奏会を開く事が少なくて、お蔭で演奏会の為の練習を行う事が出来たからでしょうね。 |
| 司会 | 木下先生、昔と今とを比較して感じられた事は? |
| 木下 | 昔はトップ・テナーはG以上の音を歌えなかったですよ。Gが出て来ると「Gがあるよ、Gがあるよ」って云ってね(笑)。だから第九やってもAを歌えたのは僕1人だった。 |
| 畑中 | 上野でもそうでしたものね。 |
| 木下 | だからレパートリーは少なかった。それが今の人達はBなどでもポーンと出すでしょう。バスの方はそれ程でもないけれども、技術の差が非常にありますね。 |
| 梅原 | それと、当時いかに努力しなかったかと云うことは、リーデル・シャッツから数曲を歌うのに、難曲ではないのだが暗譜で歌ったことは殆どなかったですね。 |
| 木下 | いや、暗譜はしていたが譜面持つのが当たり前でしたし、何とはなしに譜面を離すのが恐かったのですよ。技術面はそんな具合だったけれども、精神面、音楽に対する態度の方も時代と共に大きく変って来ましたね。当時の技術でも今と比較してこそ劣っていたけれども、先ず第一流のもので人をうちましたよ。だから小人数のコーラスでも、ステージ効果はありました。それに根性があったな。だから練習時間も出来る迄やると云う風だった。 |
| 畑中 | あの頃上野では男声合唱など出来なかったから。 |
| 梅原 | 兎に角、パート練習まで先生にお願いして。 |
| 木下 | だから一人一人の癖まで知っていましたよ。 |
| 畑中 | それは本当は望ましいことですね。パート練習でも本当は指揮者がやるのが良いのですね。 |
| 木下 | えゝ、ですから東京即ち日本で一番の演奏をすることが出来たわけです。 |
| 司会 | それで復活第1回の演奏会になるわけですが…… |
| 木下 | あの日劇でやったのはいつでしたかね。僕は永いこと御無沙汰していてあれを聞きに行ったんだが、いやソロで出たのかな、あれを聞いて人数の多いのと技術の進歩の素晴しさでビックリしちゃった。ア、スゲーナアと思ったな。 |
| 梅原 | 帝劇の復活の時は、未だ音楽を聞くと云う世情ではなかったですからね。 |
| 畑中 | 食べるのが精一杯でね。僕は復員してなかった。 |
| 梅原 | あの時如何に音楽に飢えていたかを知りましたね。とに角、帝劇をお客さんがグルグル取り巻いてしまってね。あの時は感激しました。演し物は大したものではありませんでした。大塚先生が満州で亡くなられたと云うことを聞きましたので、ショパンの葬送行進曲を合唱に直したものをやりました。その次の演奏会ではドイツ・ミサをやりましたから、当時としては高度の曲をやろうと云う意慾を皆持っていましたね。その頃は我々には掛替えのないスターがいましたから、それで合唱を補っていたわけです。 |
| 司会 | 木下先生、戦後再び指揮されて如何でしたか? |
| 木下 | 技術の方は聞いていたから驚かなかったけれども練習方法が近代化された点ですね(笑)。練習時間をキッチリ決めてね。レパートリーもあの思想的混迷の時代に変って行きましたね。それと学生指揮者と云うのが生れたでしょう。 |
| 梅原 | あれは私が忙しくなって続けられなくなったので学生の間で相談した結果、関学で成功した例もあるからと云うのでダーク・ダックスの金井君が指揮者になったのです。同時に私の方もOB合唱団を組織して、現役に呼応する形をとったわけです。それから2年おいて遂々木下先生にお願いすることになったわけです。 |
| 木下 | 黒人霊歌が全盛の時で、どの曲もニグロの音色で歌ってしまって。2〜3回練習したら直りましたが。とに角学生は感受性が強いですからね。 |
| 司会 | 畑中先生はワグネルとの交渉はいつ頃からですか。 |
| 畑中 | 昭和の20何年でしたか、確か平井美奈子先生に頼まれて、菊池さんの所でワグネルの諸君に発声を教えた事があります。いつ迄続いたか覚えていませんが。だからその頃の学生指揮者の演奏は聞きに行ってました。当時、上野では男声合唱をやらなかったので、僕は混声との違いを勉強する事が出来ました。 |
| 司会 | 今年六大学で振って頂いたわけですが、御感想は。 |
| 畑中 | 一番感動したのは、本当に純粋に音楽を感じてくれているなと思ったことです。 |
| 木下 | 上野ではそうはいかない。 |
| 畑中 | だから、僕にとっても良い清涼剤となりました。 |
| 司会 | 今の練習について何か御意見は? |
| 木下 | 方法は今のまゝで良いですが、基礎を踏み外してはいけないと云う事を云いたいですね。勿論、突拍子もない事でも許されることがあることでしょうが、音楽の基礎は忘れないで欲しいですね。 |
| 畑中 | 僕は少なくとも毎週1回は必ず行きたいと思っていますが、今のやり方で僕なりのメトードを作りたいと思いますから、これからのワグネルを見て頂きたいですね。 |
| 司会 | 今の選曲はどうでしょう。2〜3年前は、慶應の日本物、早稲田のニグロと云われていましたが……。 |
| 畑中 | やはりそう云う事があるのですか。ワグネルはドイツ語が下手なのですか。 |
| 木下 | いや、僕は今度ドイツ物をやるんだけれども、ドイツ語は上手ですよ。 |
| 畑中 | おやそうですか。 |
| 木下 | それで売り出したのだから(笑)。今年関西へ行って評判を高めて来ましたよ。フランス語の学生が多いそうだけれど、語学は良いですね。一度やって御覧なさい。 |
| 田中 | 今迄日本物が得意だったと云う事は、やはりその様な発声をしていたわけでしょうか。それが西洋音楽の発声に改められて来て……。 |
| 木下 | いや、それは結構だと思いますよ。日本語が得意と云うのは究極の目的だと思いますね。 |
| 一同 | それはそうですね。 |
| 木下 | 然し残念乍ら、日本には男声合唱曲の数は多いが名曲は少ないですからね。何時の定期にも出せる位なら、日本語の得意なワグネルと云うのは良いですね。然し現状では、外国の良いものをどんどん吸収する事が大切ですね。何と云ってもクラシックは向こうから出発しているのだから。日本の男声合唱曲は歴史も浅い事だし、学生の間に基礎を掴む事です。これからの選曲になると断言は出来ませんが、日本の良いものを中心にして、クラシック、或は新しいものの良い点を取り入れることですね。具体的には何とも云えませんが。ただ新しいもので名作と云うのは私達には解りませんからね。これはやはり、ある時代を過ぎなければその価値判断は出来ないし、又、譜面を直ぐに入手すると云うのも困難でしょう。 |
| 梅原 | 人数の制約はございませんか? |
| 木下 | それはありますね。今後に課せられた問題です。曲によっても適当な人数というのはありますから……。 |
| 司会 | その意味でも、お二人のオーソリティがワグネルに居られることは大変幸福です。今後の御予定を……。 |
| 畑中 | 先ず、パートの音色、ニュアンス等技術の問題を少しずつ解決して行きたいと思います。発声を1人ずつ見たいけれども多人数だから‥‥。 |
| 梅原 | それは今年の四連で答が出ているでしょう。合唱の本場と云われる関西を感心させたのだから。合唱型の発声で小さく固まろうとする傾向を打ち破ったと思います。 |
| 木下 | 私も同じです。昔は根性で歌っていましたが‥‥。 |
| 梅原 | 今は澄んだ響きのある良い音を出していますね。今後もこの方向に進んで行って頂きたいと思います。ベースが一寸ダイナミックの点で欠けている様ですが。 |
| 木下 | それは過渡期である為でしょう。響きが整えば、テナーに較べて貧弱かもしれませんが、合唱の響きとしては立派に対抗出来ると思いますよ。 |
| 梅原 | ヴォリュ−ムを考える余り、気張ってしまって胸に力が入り、響きが犠牲になる様ですね。 |
| 田中 | やはりもっと頭声を使うことですね。今度はシューベルトをやったお蔭で、部員にクラシックを追求する意が生れて来た様子で嬉しく思っています。 |
| 木下 | 確かに大学生のやるべき事だからね。その点で今度は成功だった。 |
| 司会 | これからのワグネルについての御注意を。 |
| 畑中 | 先程、木下先生の仰言った「根性」と云うこと。良い言葉だと思いますね。兎に角、誰でもやる気があると云うこと。やる気があれば毎日の練習が新鮮になって、きっと良い結果が得られると思います。 |
| 木下 | それが今迄の売り物でもあったし。技術は専門的に見れば劣りますが、根性で聴衆を惹きつけるのだから。 |
| 梅原 | 慶應は文化面でも高いものがあるのだから、純粋な品格のあるものを常に追求する様に心掛けて下さい。 |
| 司会 | 今年初めて早慶合同演奏会を行いましたがどうお考えですか? |
| 梅原 | 早慶と云えば私学の雄で、文化面においても他をリードする地位にあるのだから当然あるべきものですね。 |
| 木下 | 日程の面でも難しいでしょうが、1年おきでも結構だから、続けて貰い度いものです。それだけ技術レベルか上がったのだから。 |
| 司会 | 各大学が地方に演奏旅行を行うことについて。 |
| 木下 | 各地に大きな刺激を与えているそうですね。 |
| 畑中 | どこの大学でも、本来メンバーの質は同じ筈で、ワグネルだけが良いと云うことではないでしょう。どこの合唱団にしろ、上手になる可能性はあるのだから、それを自覚するか否かが問題ですね。 |
| 田中 | 今は演奏会が多くて機械的な演奏になってしまいます。それに期間をおくと内容のない練習になり勝ちで。 |
| 木下 | それを上手にもって行くのが幹事の仕事でしょう。人数も多いことだし大変でしょうが、部員間の連絡を緊密にして、良いステージを持てる様に努力して下さい。 |
| 司会 | どうも有難うございました。 |